テッド・バンディ② 裁判での奇行からその最後までの記録【閲覧注意】
- 2019.02.05
- サイコパス名鑑

どーも皆さんこんばんわ
ゲーム探偵でおなじみ、ガンダルフと申します。
今回は、前回お届けしたテッド・バンディの続きになります。
まだの方はこちらをご覧くださいネ。
マイアミへ護送されたバンディのその後をご覧ください。
テッド・バンディ

(1946年11月24日~1989年1月24日)
本名:Theodore Robert BUNDY(セオドア・ロバート・バンディ)
コロラド、オレゴン、ユタ、フロリダ、ワシントンの5州に渡り、記録上36人を殺害したサイコパスの代名詞。
バンディ、マイアミへ

マイアミで待ち受けていたのはもちろん裁判。
タラハシーにある女子寮での生徒誘拐殺人の容疑で、法廷に連れ出されることになったバンディ。
バンディのショーが始まることになります。

裁判所から派遣された国選弁護士が5名いました。
通常国選弁護士というのは、被告人に思い入れがないことや仕事にあぶれている弁護士に要請されることが多く、被告人としては出来るだけ避けたい存在なんです。
しかしバンディ

自ら「自分の弁護をする」といい、弁護側の席に座ります。
ロースクールで学んだ法律を生かす時がついにきました!
勉強ってのはしておくもんですね。
裁判にて判決が出るまでは、バンディは「拘束されているだけの普通の人」という扱いですので、日本でも可能ではあります。

検察が提供する証拠品へ、ズバズバと反論を提唱するバンディ。
その姿と甘いマスクに、女性ファンが大勢つく事になりました。
しかし検察も馬鹿ではありません。
女子寮のメンバーであったニタ・ネーヴィーが、バンディが女子寮から出てくるところを目撃していました。
ニタを法廷に呼び出し、「この裁判所内に、忍び込んだ男はいますか?」と問うと、ニタはピンストライプのスーツに身を包んだバンディを指差します。
検察はさらに最終兵器を投入

殺害されたリサ・レヴィのお尻の左側に、バンディの歯形が残っていました。
もう無理。

もう無理だよバンディ。
コレを期に、バンディはその他の殺害でも有罪判決を受けることになります。
しかし、バンディは自分の犯行を否定し続けました。
バンディ、最後の大仕事

処刑を待つバンディの元へ、連邦捜査官の特別代理人ウィリアム・ハグマイヤーが訪れます。
他の訪問者からは「バンディは野生動物だ、決して誰にも心を開かない」と評されていました。
しかしハグマイヤーの頻繁な訪問からか、バンディ自身が彼を”親友”だと呼ぶようになります。
コレによって心変わりしたのか、バンディは最後の大仕事を始める気になりました。
1984年10月、キング郡にいた刑事ボブ・ケッペルに連絡を取ります。
内容は

「今起きている連続殺人事件の捜査に、俺の頭脳を貸そうじゃないか」
1982年から1984年に起こった連続殺人鬼「グリーンリバーキラー」の逮捕に協力するという宣言でした。
未だ事件の全容を明かさないバンディから真実を聞き出すという目的のために、ケッペル刑事は捜査協力を承諾します。
実はこの事件、当時のアメリカ最大の未解決事件とされており、いつまでも犯人逮捕に至らない状態。
確かに同じ連続殺人を起こした者同士、思考の似ている部分があるかもしれない。
期待を胸にフロリダの刑務所を訪れたケッペル刑事が、バンディから聞き出した情報は
ここで初めて明かされる、バンディ自身の犯行手口でした。
バンディの犯行方法

バンディは学生時代に学んだ心理学を基に、毎日かかさず
鏡の前で笑顔の練習を繰り返したそうです。
森に遺体を捨てられていたジャニスとオットなどに対しては、湖で遊んでいた際に独りになったところを狙い、近づきました。
近づく際には必ず小道具として「ギプス」を足や腕などに着用し、あたかも骨折しているかのように見せかけていました。

その甘いマスクに重ねて、練習に練習を重ねた笑顔を見せつけ、瞬時に信頼を獲得します。
わざとらしく被害者の目の前で転んだり、「ちょっと荷物運びを手伝ってくれないか?」「腕がこんな状態でね・・・」などの言葉で車に被害者を寄せ付け

あらかじめ車のタイヤ部分に隠していた鈍器で撲殺
女子寮での事件では、鈍器を懐に忍び込み被害者を撲殺。
全ての事件に共通するのは、遺体を遠くへ持ち去った後にレイプに及ぶこと。

そして、被害者はほぼ全員が、センター分けのロングヘヤーであったという点でした。
もうマーベラスなまでに快楽目的。
この捜査協力により、自らの命を縮めたことは間違いありません。
命をかけてまで捜査協力を行ったバンディ。
その協力により、グリーンリバーキラーの捜査が

一切進展しませんでした。
な~んにもです。
まったくです。
結局2001年までグリーンリバーキラーは捕まらなかったんですが
その頃のバンディは・・・
バンディ最後の時【閲覧注意】
既に全米で知られていたテッド・バンディの名前
1989年1月24日のフロリダ州刑務所は、数え切れない人たちで囲まれていました。
バンディの死刑を嘆く者、喜ぶ者、傍観する者や報道陣で溢れかえり、場は死者をも起こしそうなほどに大騒ぎ。
そんな中、バンディは人生最後の言葉として
「私の愛を、家族や友人へ与えてもらいたい」
とポツッとつぶやき、電気椅子のある薄暗い部屋へと消えていきました。
刑務所の外では、電流投入までのカウントダウンが盛大に行われました。
3・2・1・・・
2000ボルトの電流が2分もの間バンディの身体を駆け巡り

午前7時16分、テッド・バンディ死去
死亡確認と共に、大きな歓声が刑務所を包み込みました。
生涯を快楽に捧げた男テッド・バンディ
目的のために手段を選ばず、己を高め続けたことは賞賛に値します。
テッド・バンディの死後、憧れた人間による模倣殺人も起こりましたし、その人生は伝記、小説、映画など様々な媒体で語り継がれています。
幼少期に親の喧嘩を見たり、虐待を受けたりすると、他人との共感性をつかさどる前頭葉の成長が著しく低下し、脳全体が萎縮することがあるそうです。
テッド・バンディがどうだったかはわかりませんが、共感性を欠いた人間であったことは間違いないでしょう。
しかし人々に与えた影響は大きく、伝説を築いたといっても過言ではありません。
共感性の無い人間に共感する人間がいるというのは、なんとも不思議な話です。
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