アルバート・フィッシュ:快楽を求め快感に溺れた伝説のSM男。通称グレイマン

アルバート・フィッシュ:快楽を求め快感に溺れた伝説のSM男。通称グレイマン
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どーも皆さんこんばんわ

ゲーム探偵でおなじみ、ガンダルフと申します。

 

このサイコパス名鑑もとうとう25記事目、だんだんと私自身の色相が濁ってくるのを実感しています。

「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」

 

あなたも注意してください。

 

それでは今日ご紹介する深淵はコチラ!

 

アルバート・フィッシュ

(1870年5月19日~1936年1月16日)

本名:アルバート・ハミルトン・フィッシュ

通称:「グレイマン」「満月の狂人」

 

児童専門の人食いレイピスト、アメリカ犯罪史上最悪の殺人鬼と呼ばれた。

 

生い立ち

ワシントンD.C.で生まれたフィッシュは、75歳になる父と32歳の母のもとに生まれます。

フィッシュの生家は代々精神病になる血筋のようで

母は幻覚に悩まされ、兄弟は今で言う”引きこもり”

5歳の頃に父親が心臓発作っで亡くなってからは、孤児院に預けられています。

 

この孤児院がまた狂気を孕んでおり

鞭での体罰が日常的に行われていました。

文字通りビッシビシ。

お尻ペンペンどころの話ではありませんが、フィッシュはこれを

きんもちいいいぃぃぃ!!

と感じてしまいます。

最中に勃起していたようで、コレが彼の人生を決めました。

自身も、鞭打ちを楽しみにする唯一の子供だったと述懐していました。

 

1879年には、母親も政府で職を得ており、フィッシュを家に連れ戻します。

しかし、孤児院で学んだ快感は彼を早期にゆがめるには十分でした。

 

12歳の頃、電信を使って同性愛者の少年と文通を始めます。

この少年が、フィッシュに飲尿やディープスロートなどのハードコアな文化を教授しちゃうんですね。

この頃には、フィッシュは大衆浴場に頻繁に顔を出し、男の子の全裸を眺めるようになりました。

週末の予定は大体浴場です。

 

フィッシュ、ニューヨークへ行く

1890年、ニューヨークへ降り立ったフィッシュは早速職を得ます。

”男性用の立ちんぼ”です。

また、幼い男の子を狙ったレイプを始めたのもこの頃だといいます。

母親はフィッシュへ結婚相手を見つけてくるんですが、その間もレイプや立ちんぼをやめておらず・・・。

 

1898年には、9歳年下の女性と結婚。のちに6人の子供を作ることになります。

子供たちはフィッシュに虐待されたことはなかったようです。しかし

たまに「釘が入った板で尻を叩いてくれ」とお願いされました。

 

結婚から19年して、妻の二度の不倫により離婚。

雑誌の恋人募集欄に乗っている女性へ

「僕の尻を叩いてください。私はあなたの奴隷です。」

という手紙を送りまくり、既読無視されていました。

 

我慢できなくなったフィッシュは、家に遊びに来た子供の友達へ釘付き板を手渡し、叩くようお願いします。

「どうしてこんなことしなきゃいけないの?」

「キリストの受難を乗り越えなければならないんだ」

  

叩かれながら射精する姿を子供に見せ付けといて

どのツラ下げて聖職者気取りだ。

  

40歳、フィッシュ目覚める

ここで家の塗装屋としての職を得たフィッシュは、とうとう対象を自分だけではなく他の人に広げ始めます。

6歳以下の貧民層の黒人をよく狙っていたようで、40歳にて

”はじめての少年レイプ”

 

これを皮切りに、アメリカ23州を渡り歩き犯罪行脚に努めます。

1924年には、農場で遊んでいた8歳の少女を誘拐しようと、お金を渡したり、夜中に納屋に忍び込んでチャンスをまったりしましたが、母親に追い立てられています。

 

少女グレースの場合

1928年にフィッシュは、新聞広告の日曜版に掲載されていた「仕事探してます」という求人広告に目を留めました。

当時58歳のフィッシュは、フランク・ハワードという偽名を使ってワックワクしながら会いに行きました。

なんてったって、求人の子は18歳の男の子エドワード・バッド。

どんなプレイをしてくれるだろうかと期待が止まりません。

とおもったら

玄関先で10歳の少女グレース・バッドに出会ってしまいました。

一度目はエドワードの面接で終わらせましたが、二度目の訪問で「妹の孫の誕生パーティーへ連れて行きたいと」両親へいいます。

両親は快諾し、フィッシュはグレースを連れて家を出て

二度と帰ってきませんでした。

 

誘拐から6年後の1934年11月に、グレースの両親のところへ一通の手紙が届きます。

 

親愛なる婦人へ。1894年、私の友人で蒸気船の船長をしている船長は積荷を輸送していました。彼らはサンフランシスコから香港まで航行しました。そこに着くと、彼は他の二人と共に陸に上がり、酒を飲みました。彼らが戻った時には、船はなくなっていました。当時、中国は飢饉に襲われていました。あらゆる種類の肉がポンドあたり1~3ドルの値段で売られていました。そして、飢饉は重大であり、飢饉に苦しむ人を守る為12歳以下の子供たちは全て食べ物として売られていました。14歳以下の少年、少女も街路では安全ではありませんでした。どんな店でも、ステーキ肉やチョップ肉、シチュー肉を買うことができました。裸の少年少女を連れてきて、欲しい部位を切り分けたのです。少年少女の尻は体の中で一番美味しい部位で、子牛のカツレツとして高値で売られていました。船長は長いことそこに滞在し、人肉の味わいを習得しました。彼はニューヨークに戻ると、7歳と11歳の少年を盗みました。彼らを自分の家に連れて行き、服を脱がし、裸にし、戸棚の中に縛り上げました。それから、彼らが着用していた物を全て燃やしてしまいました。彼は1日数回、彼らの肉を上質の柔らかな物にするため彼らを殴打しました。(彼らはひどく苦しみました。)彼はまず11歳の少年を殺しました。なぜなら、彼のほうがより太ったお尻で、当然それにはより多くの肉が有ったからでした。頭、骨と内臓を除いて彼の体の全ての部分は調理され、食べられてしまいました。(彼のお尻は)オーブンでローストにされ、ボイルにしたり、焼いたり、油で揚げたり、煮込んだりと彼は調理されました。次に小さなほうの少年も同じようにされました。当時私は彼の家の近所に住んでいました。彼はしばしば私にどれだけ人肉がうまいかを語り、私もそれを味わってみたくなっていました。1928年6月3日の日曜日に、購入したカテージチーズとイチゴを持って、私は貴方の住所を訪れました。私はその時昼食を取っていました。すると、グレースは私のひざに乗り、私にキスをしました。私は彼女を食べることを決めました。彼女をパーティに連れて行くという口実に、あなたは承諾し、彼女は出かけられました。私が既に選出しておいた、ウエストチェスターにある空き家へ連れて行きました。そこに着くと、私は彼女に外で待っているようにと言いました。彼女は野の花を取っていました。私は2階へ行き、すべての着衣を脱ぎました。衣服を脱がないと、それに彼女の血が付いてしまうだろうことが分かっていたからです。全て準備が終わると、窓際まで行き、彼女を呼びました。その時は、彼女が部屋に入ってくるまで、戸棚の中に隠れていました。彼女は裸の私を見ると、泣き出し、階段を駆け下りようとしました。私は彼女を鷲づかみにしました。すると、彼女はお母さんに言いつけると言って来ました。まず、彼女を裸にしました。すると、彼女は蹴ったり、噛んだり、引っかいたりと、なんとも・・・。私は彼女を絞殺しました。それから、彼女を小さくコマ切りにし、そのようにして彼女の肉を私の部屋に運び入れました。調理し、食べました。オーブンで焼いた彼女の小さなお尻の、なんて甘美で柔らかだったことでしょうか。彼女の全部を食べるのに9日間要しました。私が望むなら彼女をレイプできましたが、それは行いませんでした。彼女は処女のまま天に召されたのです。

アルバート・フィッシュからの手紙

 

狂ってる・・・

この手紙により犯人をフィッシュと特定。

手紙は「NYPCB(New York Private Chauffeur’s Benevolent Association)」という文字が書かれた六角形の紋章の入れられた封筒で配達されており、フィッシュが下宿していた宿にも同じ封筒が残されていました。

フィッシュは数日前にチェックアウトしており、フィッシュの子供が彼にお金を送っていたと女将に確認します。

フィッシュが戻るまで家の外で待っていたところ

両手にナイフのフィッシュが襲い掛かってきました。

 

警察はフィッシュの武装を容易く解除し、逮捕。

フィッシュは、グレース殺害の容疑を否定しませんでした。

グレースの遺体発見時の写真

 

他の事件

彼の逮捕が新聞に掲載され、「1927年に息子を連れて行った老人だ」と気づいた過去の犠牲者の母親が警察に通報。

息子の死についてフィッシュに確認すると

 

私は彼をRiker Avenueのゴミ捨て場に連れて行った。私が彼を連れ去った場所からそれほど遠くないところに一軒の家があり、少年をそこへ連れて行った。

彼を裸にして両手と両足を縛り、私がごみ捨て場から取り出した汚れた雑巾で彼を縛りつけた。それから私は彼の服を燃やし、靴を投げ捨てた。それから私は戻って歩いて午前2時に59通りにトロリーを持って行き、家に向かった。

翌日の午後2時ごろ、血が足から流れ落ちるまで、私は彼の尻を犯した。私は彼の耳を切り落とし、鼻を削ぎ、耳から耳へと彼の口を切った。彼の目を指したときには彼は死んでいた。

私は彼の腹にナイフを突き刺し、彼の体から直接血を飲んだ。それから彼の体をへその下まで切り開いた。彼の後ろに彼の足の下約2インチの彼の足を通して。私はこれをたくさんの紙でつかみました。頭、足、腕、手、足を膝の下から切り落とします。これを石で秤量した袋に入れ、端を縛り、ノースビーチ沿いの池に投げ捨てた。

肉は持って帰った。

私は彼の睾丸が一番好きだった。尻の脂を使ってオーブンでローストすると、おしっこと雑草の臭いがした。

私は彼の耳、鼻、顔の肉、そして腹肉を、玉ねぎ、にんじん、かぶ、セロリ、塩、こしょうを入れてシチューにした。美味かった。

それから私は彼の尻頬を切り開いてベーコンを置き、オーブンに入れた後に玉ねぎを4つ選び、肉が15分焼いた後に約1パイントの水を注いで玉ねぎを入れた。

私は頻繁に木のスプーンで彼の尻を叩き、ジューシーで美味しく仕上げた。約2時間で、それは素晴らしく飴色をしていた。

私は彼の甘い脂肪より美味いローストターキーを食べたことがない。

私は約4日で肉を食べきった。

彼の睾丸はナッツのように甘いものだったが、彼のチンポは噛み切ることができなかったのでトイレに捨てた。

後のフィッシュの回想

 

二度と出てくんなし。

フィッシュ裁判開廷

 

1935年3月11日、フィッシュは裁判で「子供を殺すよう神からの啓示を聞いた」と主張しています。

自分の糞尿性愛、ペドフィリア、マゾヒズム、サドヒズムを高らかに語っています。

 

弁護士の意見では、フィッシュの倒錯と性的異常は彼のせいではなく、不幸な環境が作り出したものであり、彼もまた被害者なのだと説きました。

 

ムダでした。

 

10日後には、フィッシュへ死刑判決が下されます。

 

 

1936年1月16日には電気椅子による処刑が行われました。

一般的には、”フィッシュの処刑は一度失敗している”とされています。 

 

 

彼の股間に埋められていた29本の針がショートしたことで、二度電気が流されたと言われていますが、電気椅子による処刑は通例で二度電撃が与えられるもので、刑を見ていた報道陣に知識が無かったのではないかとされています。

 

フィッシュの遺体は、刑を執行したシンシン刑務所の墓地に埋葬されています。

最後の食事はTボーン・ステーキ

最後の言葉は「なぜ、私がここにいるのか分からない」 でした。

 

 


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