ジョン・ゲイシー①:イリノイ州一の慈善家であり隠れサイコパス。通称キラー・クラウン

どーも皆さんこんばんわ
ゲーム探偵でおなじみ、ガンダルフと申します。
人を楽しませるってのは、なかなかに難しいことですよね。
その人の需要にきっちり答えなければならないという”完ぺき主義”を貫いていたこともありましたが、最近ではゆるめの人生に結構満足しています。
人を楽しませることをライフワークにしている人は、その行為そのものに喜びを感じられる素晴らしい人でしょう。
ボランティア的活動で、「人の笑顔が報酬ですキャハ!」という行動を取れる人は、実は企業家に向いています。
週末の新宿朝5時から慈善活動でゴミ拾いを行っているチームもあるそうで、そこに参加している人たちは全員が”起業家”だったりします。
信頼できる相手は、信頼できる行為をしている時に見つかるんでしょうね。
”本来の目的”のために、ボランティア活動を「利用」するのは偽善ではありません。
ま、コイツのは偽善ですがね。
ジョン・ゲイシー


(1942年3月17日~1994年5月10日)
本名:ジョン・ウェイン・ゲイシー
世を忍ぶ仮の姿を持ったサイコパス
別名:キラー・クラウン
幼少期

イリノイ州シカゴで生まれたゲイシーは、生まれたときから心臓疾患を持っていました。
父親は父親で、脳内の手術が出来ない部位に腫瘍があり、癇癪もちで情緒不安定なところが強く、たまに爆発する怒りは常に家族に向けられます。

ゲイシー自身も、父親の記憶は「しつけや礼儀に厳しく、ちょっとした失敗ですぐぶん殴られた」と言っており、はっきり言って虐待を受けていたようです。
「クズ」「間抜け」「オカマ」「お前はホモになる」
ストレスによりパニック障害や心臓発作を起こすようになり、罵倒されては必ず

失神
ソレを見るたびに、父はゲイシーをバカにしました。
親の気を惹きたいだけだと思っており、その姿を鼻で笑っていました。

14歳から18歳までに、入院治療を一年受け、高校を4つ変わったことで、普通高校を落第しますが、職業訓練校で優秀な成績を残し、怠学補導教官(平日に街をふらついてる学生の補導員)の助手として働くように勧められます。

しかし父は
”漢”
を求めていたようで、ゲイリーの兵役が始まることを喜んでいたところ、病歴により”兵役免除”
また、当時のガールフレンドとSEXに及ぼうとした際に”失神”
後にそれを知った父は、「お前のオカマが現れたな」と言ったそうです。
実はゲイリーの失神は、11歳のときに父の鈍器フルスイングを額に受けたことで生じた脳内血栓によるものだったようで、血栓を溶かすための薬を処方されていた記録が残っています。

お前のせいやんけ!!
というご意見はごもっともですが、 父親は 1969年にアルコール性肝硬変で他界しているため父親に届くことはないでしょう。
ゲイリー、初めての家出
1962年、二十歳になったゲイシーは父に車を貸してもらいたいと言ったところ口論になり、「タイヤの空気を入れてくる」と言い残し
ラスベガスへ家出

母が引き取りにくるまで3ヶ月間葬儀屋でアルバイトをしていました。
昼は遺体の防腐処理を手伝い、夜は処置室の簡易ベッドで遺体と並んで就寝。
この頃の事をマスコミが「死体とSEXしていた」等と吹聴しましたが、ゲイリー自身はコレを「馬鹿馬鹿しい」と一蹴しています。
結局シカゴに戻されたゲイリーは、ノースウェスタン・ビジネスカレッジを卒業し、ノーン・バッシュ・シュー・カンパニーという大手靴会社で管理職候補生として就職。

そこで同僚のマリーン・メイヤーと出会い、1964年9月に結婚し2人の子供をもうけます。
仕事も営業成績も抜群で、若くしてエリアマネージャーに。
地元の青年会議所で活動も始め、1965年には第一部長に就任
またケンタッキー・フライドチキンのフランチャイズ店を購入したマリーンの両親から、アイオワKFCの3店舗のマネージメントを任されるようになりました。
付いたあだ名が

「眠らない男」
イケイケじゃんかゲイシー。
しかしまぁ、もちろんゲイシーも人間ですから、後ろ暗い部分も持ってるもんです。

結婚の少し前には、一緒に飲みに行った男と
無意識のうちにフェラチオ
父親から言われ続けていたことが現実になったのが恐ろしく、また強い嫌悪感を抱いたと言っています。
しかし3年後には青年会議所の会員の息子であるドナルド・ヴァリューズ(15歳)を
「アダルトビデオ見ようぜ」と地下室へ誘いSEX
地下室ではアルコールを少年に振る舞うようになり、後に別の15歳の少年も連れてくるようになりました。

まさにゲイリー天国
プレイ後は少年に金を払いましたが、後に少年達は何度もゲイリーに金をせびり、そのたびにSEX。
ですが1968年、青年会議所の副会長に任命される直前にヴァリューズから訴えられ、ゲイリーは26歳の頃に性的虐待の罪で服役し、マリーンとは離婚することに。
落ち始めたら早いもんでした。

しかし収監された後、7ヶ月で高卒資格を取得し、さらに通信教育で心理学などの単位を取得し大卒資格をゲット。
刑務所内の青年会議所で法律相談員として、待遇改善に関する2つの法案を州議会に通し、実績を積みます。
また、模範囚としても知られており、懲役10年の判決にも関わらず
16ヶ月で出所
イリノイ州へ戻りました。

しかし、戻った実家には父はいませんでした。
「いつか父に認めてもらえるように」と頑張っていたゲイリー、ここで人生の目標を失います。
目標を失ったゲイシーの末路

1971年、シカゴのレストランでコックをしながら、リホーム事業で身を起こす決意をしたゲイシーは、シカゴのノーウッド・パークの近く「8213 West Summerdale Avenue」の家を購入しました。
家の床下には4フィートの深さのクロールスペースもあり、なかなかに豪邸です。
まぁもちろん地下室ですから、ろくな事には使われません。
実は釈放から半年後、ゲイシーはパーティーで知り合った少年を

抱きまくってました。
一度は暴行罪で再逮捕されましたが、原告が裁判に来なかったため不起訴になったこともあります。
しかしある時目を覚ますと
ベッドを共にした相手が、ナイフを持って立っているのを見てパニック
ナイフを取り上げて相手を刺し殺してしまいます。
ふとわれに返ると、キッチンには作りかけのサンドイッチ。
そうです。早とちりでした。
ゲイリーは彼の遺体を床下に隠し、”妻”に大きな秘密を持つことになりました。
え?離婚したじゃんって?

ゲイリーはこの時、高校の同級生キャロルと再婚し、2人の連れ子と共に生活していました。
そう、出所後の夢を叶え、リホーム事業で地域社会に貢献しており、この頃表側では”誰もが尊敬する人格者”になっていたのです。

休みの日には福祉施設や病院を訪れて、「ピエロのポゴ」として子供達の大スター。

地元民主党のメンバーにもなり、パーティーで当時の大統領夫人と握手している写真も残っています。

今では、「ファーストレディーが性犯罪者と握手する写真」として有名です。

しかも当時ゲイリーは、既にシリアルキラーとなっていました。
表立って事業や政治にまい進する傍ら、裏では「アダルトビデオ見せてやるよ」と地下へ子供を連れていき、手錠をかけて凶器で脅しつつ
アナルセックスの乱舞
「首を絞めれば締りがよくなる」と、少年達が首にかけたロザリオにボールペンを入れ、ゆっくりと捻りながら犯すという所業。
少年達はもれなく殺害され、床下に埋葬されました。
その上には石灰をかけて、防腐処理を施す手際も見せています。
コイツの人生3000文字程度じゃ書ききれん!!
その②へ続きます!
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