アウシュビッツ強制収容所から学ぶ、”生きる為の心理”と、”誰かを殺してはならない理由”
- 2019.03.19
- 雑記

どーも皆さんこんばんわ
ゲーム探偵でおなじみ、ガンダルフと申します。
昔は「お金が全てじゃない」という話をよく聞いたのを思い出したんですが、近年どう考えでもお金の価値が、昔に比べて格段に上がっているように感じます。
たしかに昔は”お金で買えないもの”なんて山ほどありました。しかし現代では”そういうもの”を売るニッチな商売がどんどん増加しています。1,000円で殴らせてくれる「殴られ屋」なんてサービス、昔はありませんでしたよね。
顕著なのは、最近名前をよく聞く「退職代行サービス」
商売というのは、そもそも「嫌な事を代わりにやる事」や「楽しい時間を提供する事」の2パターンになってくるワケですが、その中でも「嫌な退職処理に代理人を立てる」ってニッチもニッチ、すげぇ商売だなぁと感心します。
だんだんと、お金で買えないモノが減ってきたということは、お金の価値が上がったということです。世の中にとって良い事かどうかはわかりませんが、お金の稼ぎ方が多様化してきたのは面白いですね。
聖書の時代から「お金を稼ぐのはやましい行為だ」なんて言われ続けて、人々から迫害を促進されてきたユダヤ人のように、「お金は悪者」という大衆意識が強かったこともありましたが、「お金」を「信用」という正しい意味に変換出来るようになってきた良い傾向だと思いました。
そういえばそもそもユダヤ人は、何故迫害されたのか。そこには超絶な大衆心理が絡んでたっけ・・・。
そんなことを思い出してたら、コレについて書きたくなったので今日のテーマはコチラ。
アウシュビッツ強制収容所

第二次世界大戦中にナチス・ドイツが占領していたポーランドに建設された強制収容所
そもそも何故ユダヤ人は迫害されたのか

ユダヤ人の迫害は、それこそ聖書の時代のお話。聖書はいわゆる「神の教え」を書き記したものなワケですが、キリスト教にはキリスト、イスラム教にはムハンマドという”神の代弁者”がいて、分かりにくい話を人間にわかりやすくストーリー仕立てで教えてくれているんです。信仰の対象も代弁者の方。
キリスト教ってのは、そもそもユダヤ教が起源。ユダヤ教は唯一神ヤハウェという、代弁者じゃなく”神そのもの”を信仰の対象に置いています。

ユダヤ教の中から、キリストを救世主とする人たちが作ったのがキリスト教。
つまり改宗しなかったユダヤ教徒は、キリストを救世主と認めなかったんです。
しかもキリストを磔にして石を投げ、迫害したのはユダヤ人。
キリスト教が広まるにつれて「キリストを冒涜している」という認識が強くなり、ユダヤ人は迫害を受けるようになります。
キリストもユダヤ人なのにね。

その後迫害が加速し、自由な職業にも付けなくなったユダヤ人は、唯一キリスト教徒が嫌いな「お金」に関する仕事しかつけなくなりました。
そう、「金融業」
「労働は美徳」とするキリスト教徒に対して、お金を貸して利子で儲ける不労所得派のユダヤ人。今ではどっちが儲かるかは一目瞭然ですね。
それでもユダヤ人は、コレにより迫害をより強めていくことになります。
この迫害が、ヒトラーの「反ユダヤ主義」にまで続いていきます。
何故ヒトラーはユダヤ人を狙ったのか

第二次世界大戦を引き起こしたのは、アドルフ・ヒトラー率いるナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)。
ヒトラーは、根底に「アーリア人(白人)こそ優勢民族」という考えを持っており、「ヨーロッパを支配すべきなのはアーリア人だ」と考えていました。
第一次大戦に負けて大借金により国家が破綻したドイツ。これを復興するにはドイツを”強い国家”にしなくちゃならない。
そのためには、ドイツ人を1つにまとめる必要がある。そこで”敵の敵は味方”という心理を利用することにしました。

迫害される「劣等民族」ユダヤ人は、クリスチャンだったヒトラーも大嫌い。「 アーリア人は世界で最も優秀な人種であり、ユダヤ人との混血で汚してはならない 」 とすら考えていました。
ドイツも国家的にキリスト教を信奉しており
当時のドイツ人は皆ユダヤ人大嫌い。
そこで、皆の心を1つにすべく、「ヨーロッパに大量に存在するユダヤ人を追放しなければ、ドイツの復興は不可能だ」という超理論を大衆に信用させたのです。

1938年11月に、パリのドイツ大使館でユダヤ人の少年が”家族を迫害された恨み”から書記官を射殺する事件が起きます。
コレにより、ドイツ国民大激怒
ドイツ国内のユダヤ教会、ユダヤ人商店を狙った暴動が起こり、90人以上の無関係なユダヤ人が殺されました。
こうなると、もう止められません。

ヒトラーが無理やり「ポーランドのユダヤ人に、ドイツ人が迫害されている」という事実無根の理由により、ポーランドへの侵攻を開始しました。
少数派の心理が、大多数の心理を操作した結果です。
アウシュビッツ強制収容所が出来た理由

ポーランドに暮らすユダヤ人の数は
200万人以上
追放することは物理的に不可能です。
追放できないなら隔離しよう。ということで、強制居住区「ゲットー」を作ってユダヤ人を押し込めます。外とは隔離され、食料もろくに与えず強制労働。
どんどんユダヤ人が死んでいきます。

その後1941年にはソ連へ襲い掛かるドイツ。ソ連にユダヤ人を追放してやりたかったのに、ソ連が強くて思うように進まない。
じゃ、もう結構死んでるし、殺しちゃうか。
「強制居住区で隔離し追放」から、「強制収容所で処理」に方向転換。のちにホロコーストと呼ばれる
ユダヤ人絶滅大作戦
を開始しました。
アウシュビッツ強制収容所の誕生

200人収容の建物に約1500人が詰め込まれ、窓の外には高圧電流の流れる有刺鉄線と監視塔。
週に二切れのパンで命を繋ぎ、時には料理用の鍋から人肉が見つかる恐怖の収容所。
一度入れば、「出口は煙突の煙だけ」

到着した人は、まず”選別”されます。
女性、幼い子供、病人、妊婦、老人は右側
それ以外は左側
右に進んだものは、「消毒のためシャワー室へ」といわれ、全裸で押し込められた部屋で

毒ガス処理
チクロンBという毒ガスが室内へ行き渡ると、10分もしないうちに悲鳴や叫びが聞こえなくなります。
30分後には、中の遺体から金品を取った後に焼却施設へ。
焼却施設から出る煙は、止まることはなかったそうです。
遺体の運び出しや焼却処理に携わるのもユダヤ人。定期的に「シャワー室」へ連れていかれ、大量虐殺が外部に漏れることを防がれました。

左へ進んだ者は労働力として「強制労働」
丸坊主にされ、番号と区分を示すバッジを貰い、囚人服一枚を手に猛暑や氷点下の中で肉体労働。
トイレの自由は無いため、排泄物は収容棟のあらゆるところに溢れ、棟内ではチフスなどの病気が蔓延。

時にはドイツが戦争に勝つための「人体実験」
アウシュビッツが秘密の人間処理施設であることを利用して、あらゆる非人道的な研究が成されました。
氷水に全裸で漬けられ、低体温症から回復させる実験。
人体の一部を別の場所へ移植したり、欠損させてどれだけ生きるかという実験。
気密室では、急激な気圧変化にどこまで耐えられるかの実験。
治療と称してクスリを投与実験もあり、毎日大量の死者が生まれました。

こんな環境におかれた人間はどうなると思いますか?
自ら有刺鉄線の電気柵へ”最後の疾走”をするんです。
周りの皆も、段々と次に柵へ飛び込む人が分かるようになります。
タバコをふかしている人です。
タバコは金銭に等しい価値を持ち、食べ物にも人の協力にも変換できる凄いアイテム。
それを自分で吸う。
それは最後の最後にやることです。
そんな環境に置かれても、強く生き残った人物
それが精神科医であったヴィクトール・フランクルでした。
何故地獄のような状況を生き延びることが出来たのか。

この苦しい環境で、最後まで耐え抜いた彼が語るに
「この世で最も過酷な場所で、恐怖に耐えていき続けられるものは、生きる意味を見出している者だ」
と言います。
愛情を持って自分を待ちわびてくれる人や、やり残した仕事に対する責任を自覚するものは、決して人生を投げ出すことが出来ない。
なぜ生存すべきか知っている者は、ほぼ”どんな”状態の生存にも耐え抜くことが出来る。

彼自身は収容中、四六時中”妻”の事を考えていたそうです。
妻が生きているかどうかも分かりませんでしたが、それはあまり問題ではありませんでした。
強制労働中にも妻にどんな話をしようか考え続け、苦しみを乗り越えて生きる原動力になりました。

残念ながら、奥さんは別の収容所で亡くなっており、再会する事はありませんでした。
しかし、彼がその時に考えていた”妻への話”を基に書かれた著書「夜と霧」は、1991年のアメリカ国会図書館の調査で「私の人生に最も影響を与えた本」にベスト10入りしています。
ここから学べることはすなわち

人は、自分のためよりも、誰かのためになら頑張れる。
自分の快楽が生きる意義なら、それがつまらなくなったり都合のいいものじゃなくなったとたんに、生きる意義を捨ててしまうでしょう。
フランクルは、「周りを照らす者は、自らを燃焼させなければならない」と言います。
自分の心地よさを求めるのを止めて、誰かのために生きるときには、「恥ずかしいなぁ」とか「馬鹿にされる」という苦痛と戦う必要は無くなり、それを”犠牲”として受け入れられるようになります。

大戦の終了間際、連合国が強制収容所の存在を明るみに出し、ナチスが崩壊するまでこの虐殺は続きましたが、1945年にフランクル自身はこの地獄から解放されました。
まとめ

沢山の豆知識と共にお伝えした、”生きる為の心理”
ちゃんと届いたでしょうか。
生きながらえるのに必要なのは、屈強さでもなく、若さでもなく、勇気でも従順さでもなく、”誰かのために何かを成す事”。
私の中では、コレをもっと研ぎ澄ませたものが”人を殺してはならない理由”になっています。
皆さんにはそれぞれ、生きる理由や殺人してはならない道徳的理由があると思います。
もしお持ちで無い方は、こんな考え方も悪くは無いんじゃないでしょうか。
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