セオドア・ガジンスキー①:神に愛された天才数学者は、壊れた。通称ユナボマー
- 2019.03.23
- サイコパス名鑑

どーも皆さんこんばんわ
ゲーム探偵でおなじみ、ガンダルフと申します。
天才と秀才には、明確な違いがあるといいます。
秀才は、学校のような集団行動や規則の範囲内で、抜きん出て結果を残す人。
天才は、ルールや派閥をそもそも飛び越えて、馬鹿げた結果をたたき出す人。
このように言えば、お分かりいただけるでしょうか。
日本では頭脳の良し悪しで飛び級する制度は、戦後になって無くなりました。
しかしアメリカには”ギフテッド”と呼ばれる、天才的な才能を持って生まれてきたとしか考えられない人間が存在しています。
300万人中1人の確立で生まれてくる”スーパーギフテッド”は、もう9歳でケンブリッジ大学に入学しちゃうようなバケモノですし、”育ってきた環境”と”血筋”の関係性について検証してみたいところです。・・・こういう言い方すると人体実験したいみたいだな。したいけど。
というわけで、本日ご紹介するサイコパスは天才も天才。かつてギフテッドと呼ばれた男のお話。
セオドア・カジンスキー

(1942年5月22日~)
通称:ユナボマー
幼少期

シカゴ生まれの天才少年は、ポーランド系アメリカ人の二人の下に生まれます。
生後6ヶ月で激しい蕁麻疹を発症。隔離病棟で8ヶ月間の治療を受けることになりました。面会謝絶の日々が続き、退院後も感情を見せることが極端に少ない時期が数ヶ月続いたと、母親が手記に残しています。
医者から治療のため押さえつけられる事に嫌悪感を覚えたようで、ケージに入れられた動物に感情移入することがあったようです。

シカゴのシャーマン小学校に4年間通い、弟が生まれた頃にエヴァーグリーン・パークへ引っ越し、別の学校に転校したところでちょうど彼の驚異的頭脳が公になります。
知能指数テストによってはじき出された結果は
IQ:167
魔法攻撃に補正がかかりそうな結果をたたき出し、6年生を免除され飛び級で7年生になります。
しかし、コレがカジンスキーの人生を大きく歪めた事は間違いないようです。

同級生と接する際は社交的なリーダー的存在だったにも関わらず、飛び級後は歳の合わない他の子達に馴染めず、いじめを受けています。
近所の人からは「マジ天才だわ。他に見たこと無い」と評される反面、「人と強調せず単独行動ばかり」な子供だったという証言もありました。
高校生活

エヴァーグリーンのコミュニティカレッジに通い始めて2年、彼にとって「数学」があまりに楽勝だと考えるようになります。
他の生徒からは「歩く脳みそ」といわれ人間らしい扱いを受けないため、代わりに部屋にこもって何時間も微積分の計算をしているような
ガリッガリのガリ勉少年になります。
それでも友達はいました。友人の一人は「シャイなヤツだったけど、一度知り合いになると話好きな一面をよく見せた」と言っています。
しかし結局、高校三年を飛び級していく彼にとって、「同学年」という関係性は儚いものだったんじゃないでしょうか。
16歳でハーバード大学に入学

俺の16歳なんて、自転車通学に辟易しながらどうサボろうかしか考えてませんでしたよ。
しかし大人の期待とは時に悲劇です。周りの期待からの強制入学だったようで、「準備の出来てないカジンスキーを捕まえて、無理やりハーバードに送り込んだんだ」と言われています。
大学でも人を避けがちだったようで、寮に帰ると自室へ駆け抜けていき、スグにドアを閉める姿は同じ寮の人たちに印象深いものでした。

手前の子がタイプです。(余談)
1962年には数学の学位を取得し、優秀な成績で大学を卒業。彼の成績がずば抜けて高かったことは、GPAという成績評価で3.12という平均(2.5)を大きく上回る数値から見ることが出来ます。

余談ですが手前の子が
ミシガン大学の大学院へ入学後、修士号と博士号も取得。教授たちからも「研究に没頭する姿は並大抵のものじゃない。数学の真理に近づく情熱がマジパない」とべた褒めされまくり。
彼の書く論文は、アメリカでも10人理解できればいい方で、この論文を基に雑誌に論文を寄稿したり、連載をもっていたり。
25歳になった1967年、カリフォルニア大学バークレイ校で

最年少「数学助教授」の地位に着きます。
天才、ココに極まれり。
天才の崩壊

しかし、どうやら様子がおかしくなったのもこの頃でした。
彼の授業は教科書を逸脱することは絶対に無く、学生の質問にも一切答えてくれません。
疲れていたといえばそれまでですが、なんとそのまま1969年6月30日
何の説明も無く退職
突然の辞職に、周囲も驚きを隠せませんでした。
「彼の研究分野は実質、既に消滅している」と後に語られます。
理由は、彼が研究し尽くしたから。
ほとんどの理論の証明は、カジンスキーによってなされてしまったんです。
コレが原因でしょうか。別の研究に移行することは出来なかったんでしょうか。
彼は何も語らず、ロンバートの両親の元へ戻り、2年後の1971年にはとうとう

リンカーン郡の郊外に掘っ立て小屋を建て、サバイバル生活に入ります。
人とのふれあいを絶ち、よゐこ顔負けの完全自給自足生活。
獲物を追い、植物を食べ、畑を営み、火を起こし・・・
時々は街へ古い自転車で降り、図書館で古典作品を読み漁る。
当時のリンカーン郡では、このようなライフスタイルはさほど珍しくはなかったようです。

私が考えるに、人を避けるのがメインの目的ではなく、日々自然の恵みを享受することに喜びを感じていたんではないでしょうか。
そうでないと、彼のこの後の行動が理解できなくなってしまいます。
ある日、お気に入りの絶景スポットへ行った彼は、そこが開発によってすっかり整備されて舗装された道路が通っている様子を見ました。
いや、「破壊された大自然」をそこで見ました。

平坦でない起伏のある土地で、縁まで行けばそこから崖のように急角度の斜面になっているのがわかるし、滝まで流れ落ちている。私の小屋から歩いて2日はかかる所なんだ。1983年の夏までは、散歩をするならそこ、というような場所だった。その年の夏は私の小屋の周りには人が多すぎて、ちょっとした平穏を求めて出かけることにしたんだ。あの高台に戻っていつもの場所に行ったら、あの人間たちがちょうどそこの真ん中を通るように道路を建設しているのに気が付いたんだ…。私がどれだけ取り乱したか想像もつかないことだろうね。その時から心に決めたんだ。これ以上自然の中に生きる技術を身に着けるよりも、体制そのものに仕返しをするのが先だ、と。つまり、復讐だ。
— セオドア・カジンスキー
つづく
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