阿部定:彼と一緒にいたいからって、そんなとこ切り取るのは勘弁して下さい。
- 2019.04.08
- サイコパス名鑑

どーも皆さんこんばんわ
ゲーム探偵でおなじみ、ガンダルフと申します。
探偵作品やスパイ作品には、主人公の活躍を引き立たせるための大事な存在が必ずといっていいほど登場します。
そう、それは
ヒロイン
経験豊富で主人公を出し抜く峰不二子のようなヒロインから、主人公の幼馴染というだけで殺人現場に必ず居合わせ、たまに命も狙われる美雪のようなキャラまで、その種類は数え切れません。
私としては、自分の人生に登場して欲しいヒロインキャラは
魔性の女
がいいと考えてます。
”魔性”という単語が付くだけでなんともエロい響きですが、男を手玉に取りつつたまに冷酷な顔を見せるけど、人情味と母性に溢れる面が見え隠れするとか
いやでもフェチ心くすぐられます。
というわけで、今日はこんなサイコパスをご紹介
阿部定(あべさだ)

(1970年4月23日~)
日本の俳優、千葉県松戸市出……
違うわ
阿部定 (あべさだ)

(1905年5月28日~没年不詳)
日本をかつてパニックに陥れた芸妓・娼妓
阿部サダヲの芸名の由来
出生

江戸時代から代々続く畳屋「相模屋」で8人兄弟の末子として、東京は神田の新銀町に生まれます。
仮死状態で生まれ、母の母乳が出にくいという理由で1歳になるまで近所の家庭で育てられています。
4歳になるまで会話が出来ず、後に癇癪もちの娘となりますが、進学前から母の勧めで三味線で常磐津節という楽曲を習い、「相模屋のおさぁちゃん」として近所で有名な美少女となりました。
学業よりも歌や踊りの稽古を優先して育てられ、そのような環境からか、10歳になる頃には”性行為”の意味も知っていたそうです。

高等小学校は14歳のときに自首退学。大学生とふざけているうちに美少女ゆえか強姦され、これが定の初体験となりました。
15歳の終わり頃に初潮を迎えますが、本人によれば「もう自分は処女ではないと思うと、もうお嫁にもいけない」と思いつめヤケクソになり、母の過保護な面もあって60万もの大金を持ち、浅草周辺を仲間と遊びまわる不良少女に転身しました。
その遊びっぷりは、浅草の女極道「小桜のお蝶」とも張り合うような豪気な物で、地元神田に名を轟かす様に。

昼近くに目を覚まし、女中に食事を運ばせ、風呂に入ると外出し、10人以上の不良少年と映画を見て、居酒屋に繰り出しては夜遅くに帰宅する。そんな生活を一年も続けて実家からほとほと呆れられたのか、三女の縁談が決まるとともに、お家の体面を守るために家から追い出される形で奉公に出ます。
しかし
奉公先の着物や指輪を盗み、警察のご厄介に。
一ヶ月で家に送り返され、怒り狂った父によりそれから1年間、換金同様に生活させました。
ちょうどその頃、長男が両親の金をありったけ持ち出し蒸発。
畳屋を店じまいし、埼玉県の入間あたりに転居します。

その後、男をとっかえひっかえする定を見かね
「そんなに男が好きなら芸妓になってしまえ!!」
と、定を郭屋の秋葉正義に売ってしまいます。
秋葉に夜這いをかけられ、4年ほど秋葉をヒモとして生活しますが、横浜の芸妓屋「春新美濃(はじみの)」に借金300円(国会議員の給料程)借りる形で契約をし、「みやこ」という源氏名で芸者の世界へ飛び込みます。

三味線が弾けたことは強みでしたが、他に特筆すべき芸もなく、客に性交を強いられることしか無かったことが嫌だと呟いていたそうです。
大正12年の関東大震災では、秋葉の家に遊びに来ていた時に災害に巻き込まれ、秋葉の家は全焼。富山の芸妓屋「平安楼」に1000円以上の借金をして、前の店への返済の残りを秋葉へ渡して一家の面倒を見るようになりました。
20の頃に秋葉に騙されていたと知って、縁を切ろうとしたんですが、「平安楼」との契約が秋葉と連判だったことで、この借金を返そうと長野へ移り「三河屋」へ行きました。残念ながら自分で売り込むわけにもいかない時代でしたので、またもや秋葉と連判で。
「静香」の源氏名で売れっ子になるものの、性病にかかってしまい、性病検査を受けてまで身体を売るくらいならいっそ」と自ら遊女に身を落とすとともに、秋葉との連判で出した契約書を返してもらっていました。
遊女時代

1927年、大阪の高級遊郭「御園楼」へ2800円で契約。
「園丸」と名乗りまたもや売れっ子に。
身請けの話も出るほどでしたが、いろんな不幸から無かったことにされ、逃走するも失敗、癇癪からトラブルを起こしては店を変え街を変え、どんどんと客室の悪い環境に身を置く事になります。
1931年には遊女をやめ、神戸でカフェの女中。しかし2ヶ月しか続かず、大阪へ戻って高級娼婦や妾、旅館の仲居をして過ごします。

ちょうどこの頃医者へ「毎日セックスしないと気が狂いそうだ」と相談しましたが、医者は「精神鍛錬や思想の本を読んだり、結婚すればいいだろう」と追い返しています。
一度は実家に帰るものの、逃げた店が放った追っ手が来たことからまたも大阪へ。定に落ち着ける場所は残されていません。
1933年には母が亡くなったと電報を受け、1934年には父が重篤という知らせが届きます。
10日間付きっ切りで看病しました。しかし
「まさかお前の世話になるとは思わなかった」
と言い残して他界。

その後、秋葉の娘が亡くなったと知人から伝え聞き、墓参りにいきますが、秋葉は相変わらず金に困っており、定は指輪を質に入れ150円を秋葉へ用立てます。
定と秋葉は、これにより関係復活。この関係は、後年まで続きます。
定、転機訪れる

1935年4月に、愛人から婚約不履行で訴えられて名古屋へ逃亡していた定は、そこで学校の校長をしていた大宮五郎と交際していました。
五郎は彼女が今まで会ったことのないタイプの男性。
娼婦や妾の仕事を、人の道から外れていると叱り、更正する様に定を諭しました。
真面目な職業に就けるよう、新宿の口入屋を通して東京中野にある吉田屋という料亭で、「田中加代」という偽名を使い女中として石田吉蔵の下で働くことになりました。
これが、彼女の運命を決めます。
歴史に残る「阿部定事件」

吉田屋で働く定は、店主の石田に惚れてしまいます。知ってか知らずか石田も彼女に惹かれ、二人はたびたび店を離れて密会を繰り返すようになりました。結果二人は駆け落ち。
定は石田へ「もう他の女と関わらないこと」と
チンコにナイフを当てて凄みます。
石田も石田で、セックス中に定にされた
首絞めプレイに御執心
快感が増すからと定に首を絞めるよう頼むようになりました。
定もコレにノリノリだったようです。
1936年5月16日、定は

絶頂を迎えるたびに腰紐を使って石田の首を絞めます。
プレイの長さはなんと二時間。石田の顔は絞められる度に歪みます。
石田の首の痛みを和らげようと薬局でおススメの薬を聞きますが、時間がたたないと治らないと言われて、気休めに良く眠れるようカルモチンという睡眠薬を買って帰ります。
しかし何を思ったか、複数回に分けて30錠の薬を飲ませました。
居眠りを始めた定に対して石田は
「俺が眠る間に腰紐を置いて、もう一度それで絞めてくれ。お前が俺を絞め殺す気なら、痛いから今度は止めてはいけない」
と言い残しました。
5月18日午前2時、眠る石田のそばに立つのは定。
計二回、死ぬまで彼を絞めました。
その後、石田のチンコを包丁で切り落とし、雑誌の表紙で包んで持ち出します。
シーツと石田の左太ももに、傷口から流れる血で「定、吉二人キリ」、左腕には「定」と書き残し、宿の人間へ「石田は具合が悪い、午後まで寝かせておいて」と言い残して宿を出ました。
大宮五郎の下へ戻り彼に謝罪し、夜は五郎と肉体関係を持ちます。
実はこの謝罪、五郎は「別の男と逃げたことに対して」だと思っていたんですが、本当は
この交際が後で大事件になること
に対してでした。
翌5月19日、買い物をして映画を見、20日には品川の宿で偽名を使い宿泊。マッサージを受けて3本のビールを飲み、五郎や友人、そして石田へ別れの手紙を書きました。
そこへ刑事が訪れたとき、定は

「阿部定を探しているんでしょ?あたしがお探しの阿部定ですよ」
と告白し、落ち着いた態度で連行されていきました。
石田への思い
精神鑑定の結果、定は「残忍性淫乱症」と「節片淫乱症」という結果が出されます。
いわゆるサディズムとフェチズム。
彼女自身は事件に対し「私は彼を非常に愛していたので、彼の全てが欲しかった。私達は夫婦ではなかったので、石田は他の女性を愛することも出来た。彼を殺せば、他の女性に決して触れることは出来ないから彼を殺した…。」と述べます。
なぜ性器を切断したのかという質問に対しては、「彼の身体と一緒に居たかった。いつも彼のそばに居たかった」としています。
石田の性器は、東京医科大学の病理学博物館へ送られ

なんと大戦後に一般公開
男としては、ほんと勘弁して下さい。
事件は痴情の縺れと判定され、 定は懲役6年の判決を受けて服役しましたが、1941年に「紀元2600年」という理由で恩赦により出所しました。
事件後

阿部定事件はマスコミによりスキャンダラスに報道され、一夜で有名人。
瓜実顔で髪を夜会巻きにした細身の女性を探す警察により、銀座や大阪では通称「阿部定パニック」と呼ばれる”勘違い通報”が多発したのがマスコミに面白おかしく書きたてられたためでした。
晩年
偽名で生活をしていた定は、戦後のエログロナンセンスブームにより、「お定本」と呼ばれるカストリ本が続々出され、名誉毀損だとし東京地裁で秋葉と連名で訴訟を起こしたり、これにより妻が実は阿部定だと知った夫に失踪されたりします。
実名を名乗るようになってからは、定を客寄せパンダとした割烹料理屋「星菊水」で、宴会の最後に「お定でございます」と登場し客をもてなしたりもしていましたが、1974年には

68歳で失踪
「リウマチを治療し7月8月が過ぎたら戻る」と書き残し、浴衣一枚だけを持ち行方をくらませました。
定の失踪後、石田の命日には必ず墓のある久遠寺へ花束が匿名で届いていたそうですが、1987年を境に届かなくなったそうです。
「人間一生に一人じゃないかしら、好きになるのは。ちょっと浮気とか、ちょっといいなあと思うのはあるでしょうね、いっぱい。それは人間ですからね。けどね、好きだからというのは一人…」
1969年に放映された映画で、定本人がこの言葉を残しています。
数え切れない男を相手取った女も、心のうちには最後まで石田がいたのかもしれません。
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