チャールズ・マンソン①:カルト教団の指導者は、如何にしてイデオロギーを持つようになったか。

チャールズ・マンソン①:カルト教団の指導者は、如何にしてイデオロギーを持つようになったか。
Pocket

どーも皆さんこんばんわ

ゲーム探偵でおなじみ、ガンダルフと申します。

 

幼い頃、オウム真理教という宗教団体がありまして、地方に住んでいた私にはまったく縁がなかったのですが、初めての東京旅行に行くという日の数日前に「地下鉄サリン事件」を起されてしまい、危うくディズニーランドに行けなくなってしまうところだったのをよく覚えています。

 

現代っ子にはわからないかもしれませんが、1995年の3月20日に地下鉄へ戦争でも使用が禁じられている神経ガス「サリン」が流し込まれ、13人が死亡、負傷者数のべ6,300人という大事件がありました。

人が何を信じようと知ったこっちゃないですが、私自身は

「神などおらぬ派」

ですので、たまに訪れるモルモン教の信者には比較的冷たく当たります。来られても面倒なだけなので。

 

しかし、宗教団体ってのは思ったよりも簡単に設立することが出来るようで、アメリカでも地方のそこかしこで新興宗教が活動しているようですね。

 

というわけで、今日は”あの伝説の指導者”をテーマにしようと思います。

 

チャールズ・マンソン

(1934年11月12日~2017年11月19日)

アメリカのカルト教団の指導者

 

 

幼少期

オハイオ州シンシナティ病院で、未婚の16歳キャスリーン・マドックスの元に生まれた少年は、母の一時的な育児放棄により名前を付けられるまで「名無しのマドックス」と呼ばれていました。

 

数ヶ月後には”チャールズ”という名前を貰い、ちょうどその時母が戯れに結婚していたウィリアム・マンソンという労働者の名前と合わせて「チャールズ・マンソン」として育ちます。

母は大酒飲みで、1939年に酒を買う金を求めて兄弟とチャールストンにあるガソリンスタンドを襲い、懲役5年の刑を受けることに。その間マンソンはウェストバージニアの叔父の家に置かれます。

1942年に仮釈放を受けた際、キャスリーンはすぐにマンソンを迎えに行き、息子を強く抱きしめました。それが、マンソンにとって晩年まで忘れられない唯一の幸せな子供時代の体験だったそうです。

 

その後は母と二人でホテル暮らしをしていました。しかし、資金面の苦しさからマンソンを里親に出すことを考えましたが、そのような家庭は見つからず、結局孤児院に入れました。

しかし、10ヵ月後には脱走し母の元へ帰っています。それをキャスリーンは拒絶し、二人は別の道を歩むことになります。

 

母と別れて

 

彼の金銭獲得手段はもちろん全うなモノではありません。

強盗です。

食料品店をターゲットに数々の盗みを働き、生活の基盤としていましたが、自転車を盗むところを見つかり御用。

この頃のマンソン君、なんと9歳。

インディアナの少年更正施設へ送られますが、4日後にはもう一人の男の子と共に逃げ出し、2人で武装強盗として活動するようになります。

2件の食料品店を襲いますが足が付いたため2回目で逮捕。13歳のときに再度更正施設へ収監されることになりました。

 

1947, Omaha, Nebraska, USA — Three days before he ran away from Boy’s Town, Charles Manson poses in a suit and tie.

 

逃走を繰り返すも失敗の連続でしたが、1951年にはとうとう2人の少年を連れて脱走。盗んだ車でガソリンスタンドを襲いながら、カリフォルニアに向かっているところを逮捕され、とうとうワシントンの国立訓練学校で4年間の学校教育を受けることになりました。

IQ109という平均的な数値にも関わらず、彼は読み書きを覚えようとせず、反社会的な行動ばかりをとっていたそうです。

 

初めての結婚

1951年10月、精神科医の勧告によりナチュラルブリッジ・オナー・キャンプへ移送され、翌年2月には仮釈放を予定されていました。

しかし、公聴会の一ヶ月前に

 

 

カミソリの刃を喉に押し付けて少年をレイプ

 

仮釈放は見送られ、もっとセキュリティの高い施設を転転とする事になります。

しかし1952年10月、急に模範的人物に様変わり。高等教育も受けた彼は、1954年5月に仮釈放。

 

 

ウェストバージニアに戻った彼は、一時的に叔父の家へ迎えられ、その後母と共に引っ越しました。1955年1月には病院の看護婦ロザリー・ジーン・ウィリスと結婚。

小さな仕事と自動車窃盗で家族を養いますが、ロザリーが妊娠した10月頃にオハイオ州で盗んだ車を使ってロサンゼルスへ行きました。しかし3ヵ月後に仮釈放中の州移動により逮捕。5年間の保護観察を言い渡されます。

それでも反社会的なマンソンは、1956年3月に別件の裁判に出頭せず逮捕され、保護観察は取り消し。カリフォルニア州サンペドロの刑務所で3年間の禁固刑となりました。

 

彼が刑を受けている間に息子は生まれますが、1957年3月には母から「ロザリーは別の男と暮らしている」と告げられ、車を盗み逃走を図ったことで仮釈放の権利を失います。

 

檻の外

 

1958年9月、ロザリーとの離婚が成立したその時に5年間の仮釈放を受けました。

マンソンはこの頃16歳の少女レオナを惹きつけており、少女の両親から支援金などを受け取って生活。偽造小切手の現金化に失敗し再度有罪判決を受けていたマンソンでしたが、2人の愛は本物だったようで、10年間の保護観察を受けつつも結婚します。

 

レオナは売春婦として別名で活動しており、マンソンとともにカリフォルニアからニューメキシコへもう一人の女性と

売春旅行に行きます。

嫁を連れて行く神経が分かりませんが、もちろん活動は違法。

1960年6月には一人が逮捕され、活動が明るみになり保護観察違反。10年の刑が確定しました。

 

1963年にはレオナとも離婚。レオナはマンソンとの息子を一人設けたと言っていますが、真相は定かではありません。

 

1967年3月21日に釈放されるまで、彼の32年間の人生は半分以上が

獄中

社会に出てから更正できる確立は極めて低いと思います。

 

 

歴史に残る地へ

 

釈放日にサンフランシスコへの移住許可を要求したマンソンは、刑務所の知人の助けを借りバークレーのアパートへ引っ越します。

刑務所でアルヴィン・カーピスから教わったスチールギターを弾き、日常を取り戻したマンソンは、パンハンドルへ引越した際に23歳のマリー・ブルーナーと知り合いました。

 

カリフォルニア大で助教授をしていた彼女と共に住むようになり、大きな家に引っ越します。

 

 

恐るべきことにこの女

マンソンが他の女性と生活を共にすることを肯定

なんと2人の家を、18人もの別の女性と共有していたそうです。

 

 

当時大流行していたヒッピースタイルでは普通のことだったのかもしれませんが、18人の少女達はほとんどが家出少女。マンソンはこの環境を「ファミリー」と呼び、刑務所で学んだ哲学を伝える活動をしていました。

段々と活動規模が大きくなり、サンフランシスコのヘイトアシュベリーで「教祖」としての地位を確立。夏が終わる頃には古いスクールバスを改造したヒッピースタイルのバスで、教義を伝える伝道活動へ旅立つことになりました。

 

 

つづく

 


Warning: file_put_contents(): Only 0 of 86 bytes written, possibly out of free disk space in /home/gandalf/gandalfnet.com/public_html/wp-content/plugins/ewww-image-optimizer/common.php on line 9466