チャールズ・マンソン②:カルト教団の指導者は、如何にしてイデオロギーを持つようになったか。

チャールズ・マンソン②:カルト教団の指導者は、如何にしてイデオロギーを持つようになったか。
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どーも皆さんこんばんわ

ゲーム探偵でおなじみ、ガンダルフと申します。

 

それでは早速マンソンのその後を。

チャールズ・マンソン

(1934年11月12日~2017年11月19日)

アメリカのカルト教団の指導者

 

音楽に傾倒したマンソン

1968年春、アーティスト「The Beach Boys」のデニス・ウィルソンがヒッチハイクをしていたマンソン・ファミリーの女性二名を拾い、自宅に連れて行きます。

夜のレコーディングが終了した翌朝、家に帰るとウィルソンは家から出てきたマンソンによって迎えられ、マンソンはウィルソンを傷つけないと誓い、足にキスをします。

 

家の中でウィルソンは、12人のほぼ女性で構成されたファミリーと共に、マンソンと歌ったり、話をしたりで意気投合。友人にマンソンを紹介するほどになりました。

 

Never Learn Not To Love:

 

人に感銘を与えるほどにカリスマ性に溢れるマンソン、ウィルソンの家にファミリーごと入りびたり、フリーセックスで性感染症を広めたり、彼の車や金を使いまくり、ってか自由にやりまくり。

実は”Never Learn Not To Love”は、マンソンの書いた”Cease To Exist”という曲を大幅変更したモノ。のちに曲が発表された際、自分の名前がクレジットに無いことにマンソンは怒り心頭しウィルソンを殺すとまで脅迫するんですが、ファミリーの前でマンソンを

 

 

泣くまでぶん殴る

という形で報復します。しかし、マンソンと信者は家から出ないため、距離を置くべくウィルソンは自分から家を出て行く羽目になりました。

 

カルトの拠点 ”Spahn Ranch”

 

 

1968年8月にはThe Beach Boysのマネージャーからウィルソンの家を立ち退くように言われ、ファミリーと共にデスバレーにあったもう使われていない映画セットの牧場”Spahn Ranch ”へ引越し。

どうやってそんな土地を手に入れたかというと、所有者の80歳老婆とファミリーの一員を

 

SEXさせるように命じます。

また、盲目であった老婆のアシストをさせることで、牧場を無料で利用させて貰っていたんです。

 

 

ファミリーが増えれば、それだけツテが増えるというもので、牧場を拠点にどんどんと活動を大きくしていきます。ビートルズにドハマリしたりしつつ、様々なアーティストを自らのファミリーへ引き込みます。

特にビートルズがリリースした”ホワイト・アルバム”は、マンソンのために作られた曲だと本当に信じていました。

発売当初は獄中にいた無名のマンソンなのでそんなはずは無いんですが、この曲を聴き

「愚かな人種である黒人達が、いつか地上を奪いにやってくる」

という元々持っていた思想を加速させ、その時にはファミリーとバギーにマシンガンを積み込んで”黒人達のイエス・キリスト”として、彼らの代わりに世界を支配しようと考えていました。

 

 

デスバレーの荒野に高々とキャンプ・ファイアーを焚き、ファミリーを集めてはその思いを伝えるマンソンの目には、微塵も澱みがありません。

1969年1月、それほど離れていないカノガ・パークの黄色い家に移り、いづれ起こる黒人の暴動(妄想)を監視する役目に身を置きます。この家は、移り住むことで”活動を外部に知られない”という意味で「イエロー・サブマリン」と名づけられました。

 

この終末思想を「へルター・スケルター」と呼び、ビジョンに基づき計画を進めます。世界を変えるアルバムを収録し、水面下で武装を調え、仲間を集める。その行動は、本当に世界を変えるつもりで取り組まれていました。

 

計画の進行

 

有名な歌手テリー・メルチャーも一時ファミリーにご執心だったんですが、ファミリーが牧場で酔っ払って喧嘩している所を目撃後、興味を失いました。そのため、マンソンが家に呼んだときも、メルチャーは行かないこともしばしば。

移動式録音装置でマンソンの歌を収録しに行くときも、結局収録には参加しなかったり。

 

しかしこの選択は、のちに大きな間違いであったことが明かされます。

 

1969年6月、マンソンはファミリーに「へルタースケルター」の始め方を伝えなければならないといっており、ファミリーの一員であるテックス・ワトソンに資金集めをするように命じます。

ワトソンが考え出した方法は

ヤクの売人詐欺

バーナード・クロウという黒人売人を詐欺にかけることで資金を得ますが、その後クロウによって牧場が襲撃されるという事件に発展。

1969年7月1日、クロウのアパートで彼の遺体が見つかりますが、マンソンも反省したようで、牧場を

防衛拠点として武装強化

夜には武装警備員を巡回させるようになりました。

 

殺人教唆

1969年7月25日、ファミリーでありミュージシャンのゲイリー・ヒンマンが莫大な遺産を相続したと考えていたマンソンは、ヒンマンの家にマリー・ブルーナーとスーザン・アトキンス、ボビー・ボーソレイユの三人を送り込みます。

 

ヒンマンを三日間

拷問にかけ、金品強奪し殺害

殺害の理由は、「マンソンのバンドに参加するのを断ったから」

創価学会員であったヒンマンは、死の間際に念仏を唱えていたといいます。

三人は殺害後、壁に血でヒョウの足跡を描き、黒人による急進的カルト組織「ブラック・パンサー党」の仕業だと偽装しました。

 

 

1969年8月6日、ボーソレイユはヒンマンの乗っていた車を運転していたところを逮捕され、予備のタイヤに入れられた武装を見つかります。

 

2日後、マンソンはファミリーに告げました。

 

「今こそヘルター・スケルターの時です」

 

つづく

 


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