ディーン・コール①:甘い誘惑に打ち勝てなかった悲しい男。通称キャンディーマン

ディーン・コール①:甘い誘惑に打ち勝てなかった悲しい男。通称キャンディーマン
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どーもみなさんこんばんわ。

ゲーム探偵でおなじみ、ガンダルフと申します。

 

楽しい楽しいハロウィンの一週間前、皆様におかれましてはいかがお過ごし?

私は今から約2年前に発売されたドラゴンクエスト11を、生まれて初めてプレイしているところです。

最近ドラクエ11Sというパワーアップバージョンが発売したばかり。

世界中でとっくにやりつくされているであろうノーマルバージョンで今更「カジノメダルが10万枚超えたこと」に祝杯を挙げているのも、私くらいのものでしょう。

 

 

さてさて今年2019年のハロウィンは10月31日だそうです。

 

ハロウィンといえば、渋谷で行われている仮装イベントが毎年取り沙汰されていますね。

若い”テンあげ”なパリピ達が人目もはばからず肌を晒す姿を見ていて、本当にありが……苦々しく思ってしまうのは自分がインドア派なせいでしょうか。

 

町中で浮かれまわっているパリピ達に、「そもそもハロウィンってのは古代ケルト人がやっていた収穫祝いと悪魔祓い」であるなどと説いても聞く耳一つ持たないだろうと決めつけてかかってやりましょう。腹いせに。

 

気が付けば日本にもハロウィン文化が根付いておりますが、アメリカでよく聞く「トリックオアトリート!」という声は未だに聞こえてきたことはありません。

子供たちが仮装をして我が家を訪れ、「お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ」と言おうものなら「なら俺はお前たちにイタズラしちゃうぞ。グフフ」と言ってやろうと心に決めて既に15年が経ってしまいました。未だに使いどころは訪れていません。

 

まぁ私はお菓子を基本的に食べないため忘れがちではありますが、ハロウィンといえば”お菓子”というのが正統な流れでしょう。

 

というわけで、今回はこんなサイコパスをご紹介します。

 

 

ディーン・コール

英名:Dean Arnold Corll

アメリカのシリアルキラー

通称:キャンディマン

 

幼少期

ディーン・コールは、1939年12月24日にインディアナ州フォートウェインで生まれました。

メアリー・ロビンソンとエドウィン・コールの最初の子供で、厳格な父と過保護な母の元で過ごします。

成長するにつれて、教育方針の違いからか両親の口論が日に日に強みを帯びてゆき、1942年に次男のスタンリーが生まれた4年後、離婚に至ることとなりました。

父は空軍へ徴兵されましたが、どうやら子供を持つ母として”父の居ない生活”を寂しく感じたのか、母はその後家を売り払い、テネシー州メンフィスのトレーラーハウスへと住居を移し、父の部隊がある基地へと近づき連絡を取り合います。

 

 

1950年には両親は和解。

再婚してパサデナに移りましたが、やはりうまくはいかなかったようで3年後には再び離婚。親権は母親に戻りました。

しかし離婚理由は友好的なものであったようで、父親との接触は維持されていたようです。

 

子供たち自身はといいますと、弟のスタンリーは外交的な性格で常に近所や学校の子供たちと遊んでいたそうです。

一方ディーンは他人の幸せに懸念を示す傾向があったようで、他の子供たちから離れて常に一人でいることが多かったそうです。

しかも7歳のころにはリウマチに似た症状で苦しんでいたそうで、度重なる診断の結果「先天性心疾患」であると分かりったことで、可能な限りスポーツを避けるよう医師から言い渡されました。

 

インドア派からすれば願ってもないニュース、ディーン自身も喜んだそうです。

 

思春期

両親の離婚を二度も経験し、人に対する信頼感をコチョコチョくすぐられたであろうディーンでしたが、母親は離婚の直後にジェイク・ウエストというセールスマンと再婚を果たし、ヴィドールという町へ引っ越します。

1955年には義父と母の間に娘が生まれ、両親が共働きということで年長者である16歳のディーンが弟と妹を守っていました。

 

高校では変わらず内気な少年でしたが、それでもブラスバンド部で熱心にトロンボーンを吹き鳴らすようになりました。

他にもスキューバーダイビングに興味があり、海に潜り続けるようにも。

もちろんブラスバンドもダイビングも、一人で行うことはできません。

ついに彼も人と関わる楽しさを理解したようでした。

 

しかし、事件は起こります。

 

彼はダイビング中、急に意識を失いました。

 

周囲の人に助けられ一命を取り留めましたが、どうやら心臓病が原因だったようで、その後の彼はダイビングをあきらめなければなりませんでした。

 

 

その頃母は、知人からの勧めもありヒューストンへ移ったのちに小さなキャンディーショップ”Pecan Princeを立ち上げました。

「家計の足しに」と始めた事業ですから、人手も足りないのは当然です。

ディーンは学校に通いつつ、家のガレージに作られた小さなキャンディー工場にて日々仕事に追われることになります。

 

もくもくと働いていたディーンでしたが、1960年の高校卒業後は義父の両親が高齢であったことから、家族と離れてインディアナで介護をしていたそうです。

ほぼ二年間をインディアナで過ごす彼にも、ついに小さな春が訪れ彼女が出来ました。

しかし、1962年に家族の元に帰った彼は、依然と同様孤独のままでした。理由はわかりません。

 

 

ですが母はなかなかやり手だったようです。

 

戻った彼の目に飛び込んだのは、一部をキャンディー製造施設に、ガレージをキャンディーストアに改造した自宅の変わり果てた姿。

ディーンは母親のキャンディービジネスを手伝うようになりました。

 

実は「ヒューストンライティング&パワーカンパニー」という照明会社に就職し、日中はそこで働いていたという話もありましたが、退職時期も不明な上に夜はキャンディーショップを手伝っていたようなので、割愛。

 

ビジネスでの意識の相違により、母は1963年に義父と離婚。新たに立ち上げた「Corll Candy Company」という会社でディーンを副社長に任命し、益々事業に力を入れていきます。

 

軍隊での生活

1964年、ディーンはアメリカ陸軍に徴兵されることになりました。

ルイジアナ州フォートポークにて基本的な訓練を受けた後、最初はジョージア州ベニングに配属され、次にテキサス州フォートフッドにて無線修理師として永久任命を受けます。

しかし、彼自身は兵役を嫌っており、「家族の事業を助けなければならない」という理由で退役申請を出します。

陸軍はディーンの申請を受理し、10か月の兵役の後の1965年6月11日に軍役から解任されました。

 

実はこの兵役が彼の人生を大きく左右したようです。

運動嫌いで心疾患のある彼は兵役中、同じ宿舎にいた屈強な仲間たちに何度も何度も助けられました。

……色々な形で。

それまでのディーンは、自分の人生に何か不満があったことだけは理解していたようですが、この認識については確信がなかったようです。

そう、自身が同性愛者であることに気が付いたのはそこからでした。

 

 

つづく