勉強は必要だ
- 2020.05.07
- 雑記

「勉強は必要だ」
この言葉を10代から数えて何回聞いたか、もはや覚えていない。
俺は勉強しない子供だった。
小中学校での宿題は、持ち前の”言い逃れ”スキルを駆使して全くやってこなかった。
宿題をやってこない理由について、小一時間教師と二人で個室にこもって禅問答のような会話を嫌になるほど続けてまで逃れた覚えがある。
最後には教師の方が折れたほどだ。
高校時代は自ら学校に電話をかけ、「体調不調」と偽って海辺のベンチで親友と二人ガチ寝をかましていたこともある。
今となってはいい思い出だ。
そこまでして勉強が嫌いだったが、未だに好きではない。
何故かというと、未だに勉強=”どこで役に立つかはわからないモノ”だと考えているからだと思う。
誰かに教えられたことが、自分の役に立つなんて欠片も思っていなかった。
勉学を生業とした学生時代を終えてしばらく過ごしたけど、その考えは変わっていない。
教科書丸出しお仕着せに教わったことよりも、決意してバイトに勤しみ、人と戯れ罵りあった経験の方が、よっぽど記憶に定着していることを強く体感したからだろう。
でもな、このブログを読んでいる人には知っていてもらいたい。
本当に、俺がこれまでの人生で最も強く後悔している事柄の一つに
「○○駅への乗り継ぎ」を聞いてきた60代のオーストラリア人既婚女性に対して
映画で聞きかじったAttractive Women(魅力的な女性)という単語を使いまくり、「口説きまくっている」と勘違いさせたことがある。
女性は早々に、日本でアメフトのコーチをしている旦那の写真を持ち出した。家族写真まで見せてくれた。
この道のりは、旦那に会いに行くところなのだと教えてくれた。
「自慢の夫で、娘も共に日本で暮らしている」とハートフルな家族愛を示していた。
しかし俺は気付かない。
学が無いからだ。
覚えたての英語を使いたくて仕方がなかった。
それだけだ。
それだけなんだ。
お元気ですか奥さん。
目的地までお送りするのが最善だろうと、降りる予定の駅を超えてまで付いてくる不穏な輩にドギマギしたでしょうね。
その節は、誠に申し訳ありませんでした。
もし俺の隣に、「イヤそれはまずいッスよ」と言ってくれる人がいたら、もう少し結果は変わっていたことだろう。
彼女も旦那の顔を見てホッと息をなでる必要すらなかったかもしれない。
しかし、そんな心優して察しが良くて決断力があって、ガタイの奇妙なイカツイ丸坊主にでも話しかける勇気を持つ善良な人など、どこにもいないのだ。
自らが気が付き、自らが学び取らねばならない。
ここは、学校ではないのだ。
全てが実践なのだ。
30代に入って2年、今更ではあるが老婆心ながら言わせてもらう。
「勉強は必要だ」
そして重ねて、俺を含め誰の言うことも聞かない若者の存在を応援したい。
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