宮崎勤②:昭和から平成への変わり目に”世のねじれ”が生み出したモンスター
- 2020.08.15
- サイコパス名鑑

ど~も皆さんこんばんわ。
ゲーム探偵でおなじみ、ガンダルフと申します。
昭和の”オタク感”は、宮崎勤から始まったといっても過言ではありません。
宮崎はアニメの同人誌を制作していたり、全国各地にネットワークのあるビデオサークルに加入して
他の会員が録画したアニメや特撮をダビングし交換・収集するような人物です。
しかしサークルでは無理な録画やダビングをよく注文してくるので、仲間からは嫌われていました。
同人誌制作でも、態度や言動から仲間に嫌われ、発行は一度だけで終わっています。
現在でも、似たような話をよく聞くような…。
まぁ早速続きに行ってみましょう。
宮崎勤(みやざきつとむ)
(1962年8月21日~2008年6月17日)
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人
幼少期
宮崎勤の人生は、1962年8月21日、東京は五日市市で始まりました。
早産であったため、体重はわずか2.2kg
手の関節が癒着していたため、手首を上に曲げることができない「両側先天性橈尺骨癒合症」という読み方すらわからない珍しい病気に罹患しており、同級生にバカにされていました。
家族写真を撮る際は手を写さず、カメラ目線なんてもってのほか。
他者の証言では、小学校でも目立たず無口で友達を作ろうとしない少年だったようです。
しかし少年も、他の子供と同様夢を持っていました。
「大人になったら車を買ってドライブに行きたい。
レストランによってカレーライスとか食べて、親戚のところにも行ってみたい。」
まぁ夢は誰でも自由に思い描くことができますから。
最初は日常の不便さを嘆いていましたが、”できないこと”に対する理由を手の関節のせいにすることが多くなり、孤立した世界に閉じこもり徹夜でマンガを読みふけっているようでした。
中学時代は友達はいないまでも、2年生までは陸上部、3年生の時は将棋部に所属。果ては通信教育で空手を習うなど。
勝負事への執着心は強く、負けると以上に悔しがり、参考書などを片っ端から読み漁って負けた相手に勝つまで付きまとうこともあったそうです。
卒業時には勉学に励み、見事明大中野高校に入学。
英語が得意だったようで、宮崎の両親は「将来は英語教師になりたいから、そのためにわざわざ片道2時間もかかる有名校に進学した」と思っていたようでした。
しかし入学後の成績は下落の一途をたどり、本人としても明治大学への進学を望んでいましたが
成績は下の下
宮崎は当然、自分の手のせいにしました。
高校卒業後の1981年4月。
東京工芸大学短期大学部に進学し、画像技術科を専攻しています。
当時はパズルに夢中になり、自作パズルを専門誌に投稿したりして名前が掲載されることもありました。
しかも在学中にはNHKのトーク番組「YOU」のスタジオ収録に友人と共に参加しています。
友達できたんか~と思いましたが、アナウンサーがインタビューのために近づいたとたん、すぐさま他の出演者の後ろに隠れてしまい、インタビューを受けることはなかったそうです。
就職
短大卒業後の1983年、叔父の紹介で小平市の印刷会社に就職。
印刷機オペレータとして勤務することになりました。
しかし残念なことに1986年3月、上司から神奈川県への転勤を勧められましたが、宮崎自身がコレを断ったため自己都合退職となります。
その後は実家に戻り、父親の印刷会社近くにある家で家族と同居。
家業を手伝うように両親が何度も声を掛けましたが、宮崎はコレをかたくなに拒否し自室にこもる生活を数か月間続けています。
宮崎の実家も印刷会社を経営しており、姉は五日市で地方紙「秋川新聞」を経営していました。
つまり宮崎家は政治的にはかなりの影響力を持つポジションにいました。しかし息子に対する影響力はほとんどなかったんですね。
「両親に悩みを相談しようとしたら、ただ無視されるだけだった」
父はカメラやビデオにご執心。母はと言えば息子の悩みには聞く耳持たず
代わりに「日産ラングレー」のセダンタイプをプレゼントしてあげました。
宮崎家には姉妹2人、節子さんと春子さんもいましたが、宮崎に対しては嫌悪感しか持っていなかったそうです。
宮崎は肉体的に未熟であったため、同年代の女性を避けていたといわれています。
そのくせ性欲だけは人一倍強く
大学時代はテニスコートで女性のパンチラを撮影するために、当時はそれはそれは大きかったスチールカメラやビデオを担いでいきました。
アダルト雑誌には
「なんで大事なところが黒く塗りつぶされてるんだ!!!」
と、全日本男子の思いの丈を声高に語っています。
児童ポルノに興味を持ち始めたのは1984年くらいのようで
当時”性器ではなく陰毛を写すことはわいせつ法で禁止されている”からという理由から始まったそうです。
そう。映すこと前提の考えです。
あきらかに致命傷ですね。
祖父の死
宮崎が事件を引き起こすきっかけとなったのは1988年5月
祖父が亡くなったことからだと考えられています。
宮崎の祖父である小吉さんは、唯一彼に温かく接したくれた大人でした。
その後から宮崎の挙動がハッキリとおかしくなります。
妹の風呂をのぞき見して怒鳴られる。
仕事しろという母を、ブチ切れてぶん殴る。
父はそのことごとくを、諦めから無視。
宮崎は語りました。
「ひとりぼっちだと感じていた」
「一人で遊んでいる少女を見るたびに、自分の姿を見ているような気がした。」
つづく
-
前の記事
宮崎勤(みやざきつとむ)①:昭和のオタクは危ないと、朝靄カラスも噂する。 2020.05.30
-
次の記事
宮崎勤(みやざきつとむ)③:犯行の数が増えると、だいたい皆自己主張を始める。 2020.08.17